1957年北京生まれ、金華市で育つ。
コンセプチュアル・アーティスト、キュレーター、建築家、ジャーナリストであり、中国の新しい芸術家運動の創始者の一人。また詩人のアイ・チン(艾青/Ai Quing)の息子としても知られる。一族は文化革命下で苦しめられ、ゴビ砂漠を放浪する生活を強いられた。1981年には、彼自身もアメリカへ国外追放となる。
1993年に中国に帰国するまで、ニューヨークのローワー・イースト・サイドで働き、中国における実験芸術の基礎となる多数のプロジェクトを開始する。中国の文化的工芸品を破壊し手を加える事で、中国の伝統をあらわにする作品を多数発表。2007年のドクメンタでは経済、社会、文化を扱った「フェアリー・テイル」で1001人の中国人を中国からカッセルの会場に送り込み、センセーションを巻き起こした。
ヘルツォーク&ド・ムーロンは初期段階から、中国でのプロジェクトに彼を総顧問そして助言者として迎え入れた。
スイス出身。中国現代アートが生まれた70年代後半より中国のアートシーンを追い続け、妻のリタと共に、90年代以後の中国アートを体系的に収集した最初の人物。1980年に中国と西欧による最初の合弁事業を設立、1995年から98年まで北京でスイス大使を務める。その間もコレクターとしての活動に加え、アーティスト達の仲介者・スポンサー・パトロンとして中国アート界で重要な役割を担う。中国現代アートの彼のコレクションは、1200作品、200名近くの作家から成り、質量ともに無類のものである。
ヘルツォーク&ド・ムーロンのチームでは助言者として、艾未未を補完する存在であり、建設局との重要な交渉における建築アドバイザーでもあった。
金華市政の建築監督、共産党党員であり、近代的かつ実践的な考えを持つ官僚。ヨーロッパを旅行中にルツェルン文化会議センター等を訪れ、革新的で活力溢れる現代建築の世界を発見する。金華市内に展示ビルを依頼するために、艾未未を通してバーゼル在住のヘルツォーク&ド・ムーロンに接触するが、それはチューリッヒの建築規制自由化のために中国の専門家を招待したチューリッヒ市長に匹敵する、大胆な政治的決断であった。
建築家。若手ながら中国国内で数々の建築を手掛けている。北京におけるヘルツォーク&ド・ムーロンの共同経営事務所、China Architectural Design & Research Group (中国建築設計調査団体:CAG)代表。スタジアムの設計、建設全ての段階を通して、両事務所の建築家たちは共にそして密接に仕事を進めた。ヘルツォーク&ド・ムーロンにとってこの共同作業は、設計段階に生じ得る反動や、停滞状態から保護する特別な安全装置のような機能を果たした。
ヘルツォーク&ド・ムーロンの共同経営者。コンペ後からスタジアム事業に参加し、その建設と設計を入念に作り上げる重要な役割を担う。北京のヘルツォーク&ド・ムーロン事務所を数ヶ月の間任された。
共産党員、北京ビジネス界の最重要人物であり、北京国営資産運営会社の社長。ヘルツォーク&ド・ムーロンが取引した最も影響力を持つ国家官僚であり、彼らを何度も危機にさらした。彼のデスクの正面にある壁に掛けられたコンピューター製の巨大な3Dプリントは、リー・アイチンにとってオリンピックスタジアムが極めて重要であることをはっきりと物語る。
北京、清華大学都市計画科教授。中国の建築開発を専門とする批評家。




